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そこに開く余白について考えること
そこに書かれた最初の文章、「余白の芸術」に強く感銘を受けました。 少し引用します。 ・・・私の選んだのは二つ目の、内部と外部が出会う道である。そこでは私の作る部分を限定し、作らない部分を受け入れて、お互いに浸透したり拒絶したりするダイナミックな関係を作ることが重要なのだ。この関係作用によって、詩的で批評的でそして超越的な空間が開かれることを望む。 私はこれを余白の芸術と呼ぶ。 (中略) だから描いた部分と描かない部分、作るものと作らないもの、内部と外部が、刺激的な関係で作用し合い響きわたる時、その空間に詩か批評か超越性を感じることが出来る。 芸術作品における余白とは、自己と他者との出会いによって開く出来事の空間を指すのである。 (p3-p4) ああ、これなんだなと、すとんと自分の気持に届くものがありました。 自分が携わる建築に置き換えてみると、これまでずっと自分たちが考えてきたことのある部分が、ここで言い表されているのかもしれないと感じています。 “そこに開くもの”を李禹煥は「詩か批評か超越性」と記していますが、これを「気配」や「風景」としてもよいと思うし、「暮らし」や「希望」としてもよいのかもしれない。そんなふうに読みました。 これまでの自分たちの仕事や作品を省みると、どうもそれらは、自分たちの論理だけで建築や空間を完結させたいという発想ではなく、そこに「対話」や「あいだ」が多様で多層的に生まれるようにしたい、ポリフォニックな響きやその豊かさをつくりたいと考え、それを導くものとして建築がある、そう意識してきたのだなと改めて思います。 写真は、「対話 dialogue 2009」李禹煥、 横須賀のカスヤの森現代美術館「李禹煥常設展示室」にて
by prospect-news
| 2015-03-24 07:54
| 読書
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