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人が生涯をかけてなしえてきたこと、について
うらわ美術館にて開催中の若林奮「飛葉と振動」をみた。 小さな彫刻やドローイング、そして本としてまとめられたものを中心に展示が構成されており、この彫刻家が歩んだ道程を辿ることができる。規模の大きな展示作品は少ないけれど、それゆえにか作家の考えてきたことがよく読めるような展示構成だった。 うらわ美術館としての特別展示だったようだが、彼が制作した一点物の本の形をとった作品群もとても美しかった。同時にそこにつけられていた美術館によるキャプションが印象に残った。「本という形式、つまり開けることができそして閉じることができるという形式、これがこの作家の本質的な部分に重なっている・・・」という意味合いに理解できた文章だったように思う。(詳細は憶えていないけれど・・・) 確かにそうなのかもしれないな、と思った。 限定し、そこに閉じ込める(たとえそれが物質としての蓋や重しではなく、結界のような心理的な境界線だったとしても)ことによって純粋度を高めていく。ひとつの完結した世界や理想的な姿を追い求めていく、そんな作家の姿が、展示されていた作品群から(個人的には)現れてきたような気がする。 様々なものを彼のいうところの「振動尺」として用い、それによって自分の周囲と関係を築こう(あるいは明らかにしようと)とする。 しかしそれらはまた、彼自身の手によって閉じられる。 主導権が作家の側にある。 それらを閉じてしまう。 本という構造にひかれていたのもそのせいだろう、と思うのだ。 少しだけ喉の奥にひっかかってどうしても気になる(嫌ではないのだけれど、理解もしているつもりなのだけれど、それでも残っている違和感のようなもの)があったとするならば、この主導権ということについてどう考えたらよいか・・・という部分だったかもしれない。 いずれにしても、ひとつの終止符が打たれ、そこから過去を振り返ってみたとき、その人が生涯をかけてなしえてきたことが明らかになる。 若林奮という作家の場合は、ひとつの同じテーマをずっと探求し続けることが可能であったのだなと、感慨を持って向き合うことができた。そして、このような静かな思索を持つ機会をつくってくれた「飛葉と振動」展に感謝したい。
by prospect-news
| 2016-06-10 17:21
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