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膨大な量の写真や図面や模型があるなかで、なんだかほっとしたのは、石山修武の自邸である世田谷村を撮影したヴィデオでした。鉄骨や工業製品と植物や収集品などでいっぱいの興味深い家の中は、ジャングルのような皮膚感覚がありそうで、そんな住まいの吹き抜けの上の通路を、お気に入りの場所をめざして猫が横切ってゆく、心地良さそうな日なたで石山さんが銅版画に向かってわき目も振らずに作業に没頭しているシーンには、ああこれが家そのものの姿かもなあ・・・と思いました。 13のテーマに沿って選ばれた家が並ぶ展覧会ですが、自分なりのテーマで出展されているものを組み替えたり、ここに出品されていない家を付け加えたりするのを想像することも楽しいかもしれません。例えば、石山修武の開拓者の家と伊東豊雄の中野本町の家と毛綱毅曠の反住器に加えて未出展の原広司の自邸で、テーマはコスモロジー。30年くらい前だったったらそういう括りだった気がします。 この展覧会のテーマが暮らしのエコロジー(生態学)であり、社会や環境や人と住宅が相互に影響を及ぼしあうという意味で暮らしを生態学と呼び、批評と実践が暮らしとなるというのであれば、コスモロジーというテーマもありえそうです。 こんな具合にイマジネーションを広げてみることができるなら、この展覧会について考えてみるべきことは、家にしろテーマにしろ、注意深く収集されたものとそこから排除されたもののこと、別の言い方をすれば、フィルタリングとキュレーションが描き出す世界についてであり、それぞれの住宅群の示す生態学以上に、括り方やそれによる世界の見え方のほうが気になってくるように思います。 私たちは、13のテーマとそれにあわせて収集された家々が配列されるなかを、順路に沿って辿っていきます。入口と出口によって限定された中で、構築された思考が具体的な表現として空間化された展示空間を実際に巡ること、これはまがいもなく建築体験であり、そこにあるのはこの展覧会が意図する世界を経験するための建築でした。 そう捉えると、出展されている家をめぐる思考群やその相互関係、それらと関連づけられた具体的な展示空間の大小やシークエンスが、まるで家というものを巡る歴史そのもののように見えてきます。 印象的だったのは<住宅は芸術である>というテーマのセクション、篠原一男のマニフェストと作品群に捧げられています。このセクションを通り抜けないとその先の展示空間に進めません。そしてこのセクションを境にその後さまざまなテーマが花開く・・・という意図でしょうか、そんな展示構成です。(個人的にはそれはそれでワクワクしたのですが) もし、このように限定された歴史の解釈、それを唯一解として表現することこそがこの展覧会の存在意義だ、とするならば、かなり限定的なエコロジーになってしまい、意図する結果を得るための実験室内で行われる生態学になってしまう、ということはないでしょうか。 振り返れば、これまでも建築をめぐる多くのムーブメントがあったし、それはそれで盛り上がりながら、同時にそことは別の所でもきちんと批評と実践の建築は営まれてきました。ある考え方や志向が時代や時流と共に興隆し、またそれが沈静化して、ということなんだなとは、今にして思う実感です。 しかしそういう実感や視点は、時間をかけて深く探求したり経験した上で得られるものなので、若い人たちや一般の人々には見えにくいことだと思います。デコン(!)の時代に学んだ自分自身もそうでした。 そう考えると、展覧会は(限定的という前提が暗黙のうちにあるにせよ)楽しいけれど同時に責任があるよなと思います。 少し前に、いわゆるキュレーションメディアの問題点が指摘されたり、昨今ではフェイクニュースとかポスト・トゥルースといった言葉などが認識されるようになりました。展覧会というものは(あるいはメディアというものは)そういったものと隣り合わせにあるのだなというのが素直な感想です。 同時に、建築や空間というものが、生態学的に周囲に(思考やその背景にある社会も含めて)影響を与えたり与えられたりするのであれば、なお一層、建築をつくるものはその責任を意識しなければならない、そう考えさせられた展覧会でした。 日本の家1945年以降の建築と暮らしをめぐる、2017年のひとつの風景として記憶したいと思います。 追記: 帰りにミュージアムショップでこの展覧会のカタログと一緒に、買いそびれていた「建築と日常」No.3-4合併号<特集:現在する歴史>も求めました。私見では、この雑誌から得られる視界は今回の展覧会とは似ていて全く異なるものかもしれません。
by prospect-news
| 2017-08-22 17:51
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