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見方や距離やゆらめきでさまざまに立ち現れてくる関係について 佐倉市のDIC川村記念美術館へ出掛けてきました。 DIC川村記念美術館×林道郎「静かに狂う眼差し―現代美術 覚書」という展覧会が開催されていました。 美術作品も良かったし、美術館自体も落ち着いていて良かったです。いわゆるホワイトキューブと呼ばれるギャラリー空間のように作品がむき出しで置かれるわけでもなく、かといって建築空間と作品が特別に濃密な対話をしているというわけでもないのだけれど、そのどちらでもなく、つかず離れずという具合が心地よかったのかもしれません。 書籍に印刷されたものやモニターの画像でみるのと、実物を見るのは全く異なる体験だということを、あらためて実感しました。これを頭で理解することと身体で理解することの違いというのでしょうか。 作品に対する自分の身体の大きさがあって、それに加えて周りに第三者的な空間(控えめだけれど何もないわけではない)があって、それらを肌で感じつつ、その第三者的な空間を使いながら、あるいは介して、自らが作品に近づいたり離れてみたり、斜めにみたり間直に顔を寄せてみたりしながら、作品のまわりを巡ったり、その中に(作品世界の中に)入っていったりできることは本当に素晴らしいと思います。 作品と自分自身が同時にそこにありながら、それらをとりまく空間や状況もそこに一緒に存在していて、そうあることによっていろいろな関係が、見方や距離やそのまわりのゆらめき・・・次第でさまざまに立ち現れてくる。そんなふうに感じられることがとても良かったのかもしれません。 今回の企画展は、元々この美術館が持っているコレクションを林道郎さんがキュレーションすることで、新たな視界を獲得したり、これまでとは異なる文脈をあきらかにしたり、という意義があるとのこと。 興味深いのは、今回のキュレーションからこぼれた他の作品も(コレクションのうちのごく一部だけのようですが)、みて歩く途中に展示されていることです。全体像を考えると企画展がわかりにくくなっていることは否めません。それでも、こぼれたものたちは少し道を譲ってはいるけれど、排除されているわけではない、ここにこの企画展の重要なポイントがあるのかもしれない、そう思いました。 そういえば、前回の「日本の家展」での記事で書き残していたのですが、国立近代美術館でもコレクション展をみることができ、以前に比べて格段にそれぞれの作品がクリアーに見えるようになっていました。調べてみると数年前に改装したようです。キャプションの付け方や照明方法、周囲の壁の色など、展示やキュレーションも非常にうまくいっていると思いました。 ただし印象だけを言えば、それぞれがとてもクリアーで、こんな色だったのかとか鮮やかさに驚く一方で、なんだか電子デバイスのモニターで見る解像度や輝度の高い画像に近づけようとしたのかなとも思えて、多少そのあたりの意味合いに微妙なもどかしさも感じたことを書き添えておきます。
by prospect-news
| 2017-08-28 10:30
| 随想
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