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自分自身が長沢明のおわりのない風景の、その一部になっていたような、そんな気持ちにさせられた。 そんな横須賀美術館でのひととき。 先日の連休最終日の月曜日の午後、横須賀美術館で開催中の 「長沢明展 オワリノナイフーケイ」へ出かけた。 ドローイングや絵画そして立体物など、どれもとても魅力的だった。 だけど不思議と初めて観た感じがしなくて、なんだか久しぶりに会った友人の作業をまとめて観せてもらったような、そんな気持ちにさせられた。 すべて初めて知り、また初めて観たものばかりなのだけれど、何故かそんな親近感を自分が持っていることに(もちろん自分勝手にだけど)、我ながら驚いた。 同時にこの美術館の展示空間がすごく生き生きとして感じられたことも素敵なことだった。無個性的で抽象的でニュートラルな(建築関係者はホワイトキューブと呼ぶのかな?)ギャラリーが、あたかもサイトスペシフィックな場所に変わってしまったような、そんなふうに自分が感じていたことに驚いたのである。 つまりタイトルにあるような「おわりのない風景」にギャラリー自体が変質していたということなのだ。 とはいえ、それは具体的に指し示すことができる場所ではなく、いうなれば「どこでもないどこか」とでも呼ぶしかないような場所であり、同時に「そこにしかない」場所である、という意味でサイトスペシフィックと言ってみたのである。 私自身の体験としては、始めの部屋に入った瞬間から、横須賀美術館のその展示室ではなく、いわゆる「場所」ですらもない、そんなところへと投げ込まれたような、あえていうならば、自分自身がその「おわりのない風景」の一部になったような感覚だった。 はじめのイメージは「メメントの森」2019-2020、上のイメージはその細部。 下のイメージは2010年代の作品を中心に、その下はさらにそれ以前の作品。 善もなく悪もなく、そして何かを基準にという意味で時間もなく、ただ物事が生起しては消滅してゆく、それが「風景」だとこの作家が認めているのであれば、そしてそのごく一部に自分自身が在るような、ないような・・・ものであることを伝えているのならば、この「風景」はどこにあるのだろうか。 この「風景」の捉え方については、私自身も同じようなイメージを持っていて、それ故にすんなりと自分のなかに入ってくるのだけれど、それと同時に、そこに身をたゆらせているだけで良いのかという疑問も、私は自分自身に向けて持っている。 少し身を引いて、この作家のギャラリーでの展示や順路の構成などをなぞってみれば、それが周到な構成であり計画的な意図を持っていることがわかるように思う。 いろいろな意味でこの作家の<頃合い>の感覚に自分がなじむことが興味深い。 奇遇だけど、彼が生まれ育った場所や年代などが私自身の出自に近く、もしかしたらどこかですれ違っていたかもしれない、そんな気もするのである。 4月の中旬まで開催される予定のようなので、暖かくなったらもう一度訪れたい。 そんな気持ちになった展覧会だった。
by prospect-news
| 2020-02-27 09:46
| 随想
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