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能登での地震から三週間。TVや新聞で伝えられていること以外にも、我が家の相方のSNS経由でさまざまな人たちのそれぞれの実情や思いを知る毎日。その一方、この状況に対して建築設計に関わる者として考えなければならないこともある。のっぴきならぬ目の前のこと、俯瞰して見えてくること、そしてその間に広がるもの、それらは置かれた状況や立場によって、そして一人ひとり異なるのだろう。 を先日読んだ。 投瓶通信、投じられたメッセージを拾って読む者は、それを自分に宛てて送られた言葉として発見し、再び新たな広がりや文脈の中に放つことができる。可能性や想像力を受け入れにくい不確定なものとして捉える、そんな硬直した昨今の状況に投げ入れられた、爽やかで風のような本だった。 その中で特に、<庭付きの言葉>という章に惹かれた。 「とてもよいですね、けれどそこに庭は?」 二十世紀フランスの哲学者ポール・リクールが、弟子であるジャン=リュック・ナンシーが初出版した著書を読んで本人に告げた言葉だという。 著者はフランスの庭師ジル・クレマンの著書「動いている庭」を参照しながら、この言葉の持つ広がりを考えている。以下はクレマンの本から引用された部分。 時間にゆだねることは、風景にチャンスを与えることだ。それは人間の跡を残しながらも、人間から解放されてもいるような風景を生み出すチャンスである。 (本文 p26より) 「庭」とは、ある目的のために構築された何かの一部でありながら、同時にその何かに影響や変化を与える可能性を持つことができる余地、ということもできるだろう。著者は「ゆだねる」という関わり方について考えている。そのような余地に何かのありようを変える力が芽吹き、それにゆだねることができるなら、その何かは思いがけないありさまへ時間をかけて開かれ変わってゆく可能性があり、それこそが大切であるということなのかもしれない。 「庭」といえば、ずいぶん前に読んだフランシス・バーネットの短いエッセイ「庭にて」も印象に残っている。(そのことについて書いた記事) そこに「庭を持っているひとには未来があります。未来がある限り、ひとは本当の意味で生きているのです。」という言葉があったけれど、これも<庭付きの言葉>で語られていることに近いのかもしれない。 今まさに危機的状況にあるものごとや人々に、いや自分自身も当事者の一人として、「庭」を持つことができるなら、希望は必ずあると思いたい。そんなことをこの本を読みながら思っていた。 以下、「誰でもよいあなた」へ 投壜通信 から備忘録として。 人間が庭に流れる時間をすべて支配し、そこに生きるものを管理するのではなく、別のところから風に乗って運ばれてきたり、鳥の糞のなかに入ってきたりした種が、偶然そこで芽吹くような余白をつねに残しておくのが「ゆだねる」という時間のあり方にほかならない。しかし、注意する必要があるのは、人間がまったく何もしないわけではないということだ。「人間の跡を残しながら」と言われている以上、庭師はまったく庭に働きかけないのではない。にもかかわらず、庭という場の生成変化が人間の制御を超えてしまうということ。これこそクレマンが描き出している事態である。 (中略) 庭を欠いた言葉とは、予期せぬ他者の到来を待っていない言葉だろう。 (中略) 庭のない凝り固まった言葉は、窓を閉ざした部屋のように、新たな風が吹き込むことがない。 (中略) 庭のない言葉は、結局のところ誰にとっても同じ意味を持つものでしかなく、ほかならぬ私に宛てられたという思い込みを誘発するような余地を欠いている。 (中略) すぐには意味が理解できないにもかかわらず記憶の襞に引っかかり、忘れたと思ったころにふと思い出してしまうような言葉には、つねに謎めいたところがある。まさにその謎こそが「誰でもよいあなた」を招き入れる場であり、新たな芽が生えてくる庭である。 (本文 p27-p28より) 写真は私たちが設計・監理した深沢の家から。 都内の狭小旗竿地に立つ住宅において、厳しい敷地条件に丁寧に対応して計画を解いていった結果、まさに「庭」と呼べるような余地が現れた。斜線制限や日影規制に対応するために導入された斜めの壁やそれに応答する中でできたベンチ、構造力学的要請によって設けられた床などが、この家での暮らしを生き生きとさせる要素として捉えなおされている。 #
by prospect-news
| 2024-01-22 16:09
| 読書
また再び、答えることに逡巡してしまう問いに向き合わなければならない、そう強いられている人たちがいます。 「貝に続く場所にて」石沢麻依(著)/ 2021 / 講談社 を読みました。 不確定のまま取り残してきた問いとその答えに静かに向き合うこと。そのことについて書かれた物語だと自分には思えました。そこで確かなものを得ることは簡単ではないかもしれないけれど、しかしあやふやだった手応えが次第に何か別のものに変わってゆくことを感じ取れるなら、その過程そのものに希望があるのではないでしょうか。 この本の著者は風景画と肖像画という二つの方法を示して、同じひとつのことに二つのありようを認めています。そしてこの物語はこの二つの間を行き来します。それによって、未だ答えが出ていないこと、出せないでいること、決着をつけようとすることを、尊い過程として示しているように思えたのです。 以下印象に残った部分を備忘録として。 あの三月以来、鳥の視点で街という肖像画を眺めるようになった。 三年前ドイツに出発する日の朝、仙台空港から成田空港へ飛行機で移動した。機上となり窓から見下ろすと、海岸がくっきりとした線を青の中に刻みつけている。線の内側には地面の茶色の下地が広がり、そこに僅かな建物だけが点在している。素描の途中で手をとめてしまったかのようだった。以前の絵をなぞろうとして、再現できずにいる記憶の図。私の中に、その印象が浮かび上がる。海の手が暴力を振るった跡を消し去ることはできず、そこは素描のための下地を整えることから始めなくてはならない。記憶をそこに重ねようとしても、その投影を覆い隠すのは痛みを刻んだ別の顔。引き裂かれた時間の向こうに消えた肖像を、甦らせることはできないままだ。 ある場所や土地を描くと、風景画ではなく肖像画になっていることがある。額縁に囲まれた土地や街の中に、「顔」が浮かび上がってくるのだ。時間の中で変化してゆくものを捉え、その記憶を重ねてゆくと、街や場所の大きな肖像画となる。様々な土地から土地へと移動を繰り返すうちに、風景画と場所の肖像画の違いが次第に見てとれるようになってきた。そこには、時間の異なる視点が関わっているのかもしれない。風景画に必要なものは、現象の細やかな観察や写真的な視点であり、それは見ている者と場所の現在の対話的な時間の記録となる。しかし、ある場所を見て過去を重ね、そこに繋がる人の記憶に思いを寄せる時、場所の回想という独話の聞き手とならなければならない。その時それは、風景画ではなく場所の肖像画となるのかもしれなかった。 失われた場所を前にした眼差しが探し求めるのは、破壊される前の土地の顔である。時間が跡を残し、記憶が沁み込んだ馴染み深い顔。あの日以来、誰もが沿岸部を訪れる度に、それを探し求める透過した過去への眼差しを向けている。 「貝に続く場所にて」 石沢麻依(著) 2021 講談社 p115-116より 人の記憶、街の記憶、これまでとこれからのこと。未来の姿を想像すること。予測される様々な社会的問題とひとり一人の人間との関係。最適解というものはないのかもしれません。しかしいつかは、決断しなくてはいけなくなる時が来るのだとしたら・・・。機が熟すまで待つことができると良いのだけれど、それぞれがそれぞれなりに納得できるものを得られること、そうなることを望みます。 写真は昨年末、風の強い冬のある日、葉山にて。 #
by prospect-news
| 2024-01-15 09:00
| 読書
いつも不意にそれは起こる、それと背中合わせに生きている。 しかしその思いはいつも事後に現れる。 振り返れば、昨年も大雨や乾燥による大規模火災や地震が国内外のいたるところで起きていた。気象や気候にまつわることだけでなく、政治や宗教さらに歴史に端を発した出来事や争いも目立った。 明日は自分や家族や友人がその当事者であってもおかしくない。いや、本当はすでに当事者だったのだ。そんな現実感が改めてひしひしと迫ってくる。 写真は新年の我が家の玄関にて。 挿したものは、庭に鳥が落としていった種がいつの間にか大きくなったもの。短冊には「くさかんむり」、書家華雪さんによる書。 庭といっても雑草の庭だけど、彼らのしぶとさとみっちり付き合っていると、そのレジリエンスに驚かされ、その逞しさと美しさに引き込まれ、どういうわけか、それがこちらに身体に直に伝わり移ってくる。 丹念にニュースを追ってゆけば、冷静に迅速に対応している人々の姿や行動も見えてくる。年が明けて一週間、そんなことを思う日々。 #
by prospect-news
| 2024-01-08 10:40
| 風景
2024年、新しい年の始まりに。 今年も素敵な出会いがあること、楽しみにしています。 画像は「灰青の風景」と名付けたドローイングシリーズのうちの一枚。 描いた後で思い当たったのは、灰青とは自分が持つ故郷のイメージなのかもしれないということ。その意味では水平に広がる風景も同じ出自なのでしょうか。 不思議なもので、じっと見つめていると様々なものが現れ見えては消えてゆきます。部分なのかそれとも広がりなのか、そんなことも想像したくなります。 どんなものでも同じだと思うのですが、見えているものや物事は、それに近づいたり離れたり、目を凝らしたり違う見方をしたり、そんなふうにしてゆくと、さまざまな現われがそこにあることに気付きます。 建物や家をつくる場合は、もちろん必ず一つの物体を成すことになります。しかしそれが豊かなものとしてあり続けるためには、そこに求められる役割をきちんと果たしたうえで、その度ごとに違う姿や働きを現すような、そのように捉えることができる建築であることが大切だと私たちは考えています。 「回答はあっても解答はありません」とは「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2009」の帯にあった言葉ですが、そういうあり方や捉え方がますます重要になってきたかな、と思う新しい年の始まりです。 #
by prospect-news
| 2024-01-01 11:00
| 随想
こちら横須賀は暖かな年末になりそうです。 今朝のNHK朝ドラで、「みんなスズ子さんの歌で正気にもどってゆく・・・」 防空壕の中で追い詰められた人々の気持ちがスズ子の歌で我に返る、その様子が印象深かった。 文学を読むのは、"今の世の中で正気を保つため"と言っていたのは小説家の平野啓一郎だったと思うけど、それを思い出した愛助の言葉だった。 さて画像はある植栽計画。立地が山裾や林の際だったりすれば、あるいは壁などで囲い込まれたものであるならば、雑木の入り混じった姿もよいのだろう。しかしこの計画には、一般的な住宅地で、かつ、敷地内とその外部とを完全には仕切らずにあいまいな状態を保ちたい、という文脈と意図がある。 周囲と境目なく浸透しあうのではなく、また独立して別世界をつくりあげるのでもなく、周りを受け入れつつ自らもそちらへと向かいながら、しかし同時に、お互いに大切にしているものを尊重し合いたい、そんな気持ちの表れなのかもしれない。 彼の地での戦争は二度目の冬を迎え、そこから南に遠く下った場所でも別の戦いが始まり、そして幾多の争いは各地で絶えることがなく、そして近くを見ればおかしなことが次々と明らかになっていく、そんなことを思い、自分たちはどのようにありたいのか、あることができるのか、そう問いかけながら、2023年冬の日に描いたスケッチです。 #
by prospect-news
| 2023-12-28 09:58
| 計画
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