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kaiseki
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いまだ現れ出ていない何かを捉えること。 そのためにドローイングを描くこと。 建築の質感や空気感をつかもうとしてドローイングを試す。 建主さんに説明するためのものではなく、 プレゼンテーションのためでもなく、 ただひたすらに、いまだ現れ出ていない何かをつかもうとする、 そのためだけのドローイング。 計画中の空間の確認から始めたつもりが、 いつしかその作業を進めているこの手は、 いつかどこかで出会った空間の記憶を手繰り寄せ、 そこに思ってもみなかった雰囲気を醸し出し始める。 これをそのままつくるわけではないのだけれど、それでもある種の実感のようなものが、自分の中に現れつつある。これも真実なのである。 まだ先は長いけれど、 少しずつ確実に進んでゆく。 ▲
by prospect-news
| 2018-12-11 15:26
| 計画
ただそこにあること、それがいちばん難しいことなのです。 横須賀市内、あまり馴染みがなかったエリアを歩いていて、ふっと現れた建築。 重量鉄骨のプラットフォームの上に、プレハブのような小屋がぽつんと置かれただけのような建物です。もちろんどこの誰が作ったのかは知らないし、そもそも法規上の建築物なのか、それすらも怪しいのだけれど、それでも独特の存在感がありました。 よくよく見れば、鉄骨の柱は床の隅にあるのではなく、床の辺の中点にあって、小道から上がってきた人々や車を迎え入れていたり、縦ルーバーのリズムが窓ごとに少しずつ異なっていたり、様々に興味がそそられます。 なによりも、この「ただそこにある・・・」という趣や雰囲気は、それをつくろうとするとどんどん遠のいてしまう、そういう類のものかもしれません。それを設計することは本当に難しいことだと思います。 思い返せば、昔からこういものも好きだったのかも。 詠み人知らずのデザインというのでしょうか。 ▲
by prospect-news
| 2018-12-04 20:32
| 風景
単純さ、そして原理をオーヴァードライブさせる。
それは身体感覚に直接訴えかけ、すがすがしさと悦びを生み出していた。 所用で表参道へ。 しばらく足が遠のいていたのだけれど、少しだけ街歩き。 街並みをつくっていたはずの建物群には、何故か当時の華やかさや際立つエッジをあまり感じることができなかった。どうしてだろう。表参道の今の風景にみんな引き寄せられ馴染んでしまったのだろうか。 そんななか、プラダ、ミュウミュウ、コムデギャルソンといった特異な建築家たちが設計した建物は、より強度を増し、切れ味が鋭くなっているように思えた。超然としているといったほうが適切かもしれない。それがこの街では気持ちよくすがすがしい。 街を歩いてみれば、新しい建物やテナントなどができていて、近くによって見れば変化がたしかにあるのだけれど、その輪郭はあまり変わっていないようだ。 しかし、そこにあったはずの風景はもうない。そこにいた人たちも、そこにあった文化も、そしてそういったものがつくりだしていた街の風景も、みんなどこへいってしまったのだろう。 午後遅く、青山通りのビル群が西日を受けてまぶしく照り返す感じ、これだけは変わっていないんだな・・・。そんなふうに思った一日だった。 ![]() 画像上)コムデギャルソン青山店/フューチャー・システムズ 二次曲面なのかなとよくみてみると、かすかに中央部分が膨らんでいるようにもみえてくる。気のせいだろうか。このショップができた頃の写真をみると、ガラスの表面に水色のドットがあるのだけれど、それは今はない。しかし現在の完全な透明ガラスの曲面のほうが、内部と外部を鋭く関係づけているように思える。 画像下)ミュウミュウ青山/ヘルツォーク&ド・ムーロン 同じ設計者によるプラダの真向かいにあるのだけれど、こちらの建物もすざまじい。ほとんど偏執狂だ。ステンレスの厚板が隣り合って溶接され、それがそのまま外壁や斜めの大きな庇のようになっている。そして垂直方向のある範囲だけがグラデーションのように鏡面に磨かれ、そしてまた元に戻るというということになっている。どちらも、安易にまわりの風景に馴染むことを、静かにしかし強い意志で拒否し、それによって際立つ特異な空間やオーラをそこに醸し出していた。そのためになされていることは、建築の研ぎ澄まされた単純さや原理をオーヴァードライブさせること。 しかしむしろ、そのほうが人の身体感覚に直接訴えかけ、悦びになる。そのことに改めて気づかされた。 ▲
by prospect-news
| 2018-11-27 08:27
| 風景
プロセスは予測不可能でひらかれたもの。 不意のつながりや発見がある。予測もしなかったものにつながったり、見つけたりする。そんな、ものすごく大切で、そして楽しいことを伝えたい。 大学にて若い人たちと授業というかたちで会っている。 とはいえ、実習の授業なので、自分自身もなるべく彼らと同じ作業を行なって、できればその様子から何かを学んでほしいなどと思ったりするのだけれど、実際は、むしろ・・・彼らから学ぶことや、驚かされることがたくさんある。 今は大体スケジュールの半分くらいが終わったところ。アイデアの発見と開発の過程を経て、これから具体的なデザインと設計に学生たちは取り組んでいく。 上下二枚の写真はワークショップ形式の授業の中、彼らが作業をしている傍らで、自分でも制作してみたドローイング/モデル。一週目はドローイング、スケッチブックにコラージュをしたり何かを描き込んだり、二週目はモデル、スケッチブックが立体化し、さまざまな表情を見せ始めた。 ある程度予測しているところへ、不意に、思っても見なかったことがやってくる。するとそれは、そこにあるものや、それをつくる者を別の場所や次元へと押し広げてゆく。 この授業の主眼はプロセスをとおしてデザインを捉えること。 それも初めに答ありきで結果へ収束してゆくためのプロセスではなく、プロセスをとおして可能性を押し広げてゆくことを大切にしている。そういういう意味では、手法や方法の開発というよりも、それまで自分の中で明らかではなかった感覚や視界を得て、そこに身を委ねること、そして寄り道をしながら進んでゆくプロセスそのものをデザインの一部として捉え、その寛容性を実体験として経験することなのだと思っている。 もちろん、実務的な知識や技術も重要で、それなしではデザインや設計は成り立たないのだけれど、同時にそれだけでも成り立たない。この、なんだかものすごく単純で、同時に難しくて伝えにくいことを、若い人たちになんとか伝えようとしているのかもしれない。 ▲
by prospect-news
| 2018-11-20 22:28
| 随想
悠然と、そして親密で、味わい深い建築。
ホテルニューグランドを訪れて。
![]() かと思えば、通り沿いの人気のパンケーキ屋にはいまだにたくさんの人が並んでいて、そうかと思えば、お向かいの山下公園ではマラソンとは関係なくみんなそれぞれの時間を過ごしているようです。 ホテルニューグランドにも表通りとは異なる静かな時間があるようです。あの有名なエントランスは、この日の喧騒には閉じていて、隣にできた新館から入るようになっていました。 この日はどなたかの結婚披露宴が行われていたようで、シックな装いの人々がこの空間を行き交っていました。改修前はくぐもった感じも否めませんでしたが、今は一気に透明感のある視界が開けたようで、ひとつひとつの部位やディティール、そしてマチエールが生き生きと輝いていました。 柱のプロポーションと空間全体のヴォリュームの調和は、この建築独特の悠然さを体現しています。その一方、丁寧なインテリアデザインや調度品、ライティングのせいでしょうか、なんだかこの建築が以前よりも親密に感じられた気がしました。 新築の建物では生み出すことができない深い味わいと時空の豊かさを内に湛える建築が、そこにはありました。 耐震改修によって見事に蘇ったこの建築ですが、この姿を守り続けようとした人々と、それを技術によって成し遂げた建築技術者の皆さんに感謝と敬意を表したい、そう思います。 ▲
by prospect-news
| 2018-10-30 08:19
| 風景
人々の気持ちを楽しませ、生命感を蘇らせる、そんな建築について
調べ物をしていて古い雑誌(GA HOUSES 25/1989年3月)をめくっていたら、メキシコの建築家リカルド・レゴレッタ(1931-2011)の言葉に出会いました。30年近く前に掲載された文章ですが、このステートメントの、ストレートでポジティブで、そして真摯な態度が、私には強く響いてきました。 備忘録として以下に引用します。 建築は、人々の気持ちを楽しませ、生命感を蘇らせることによって社会に奉仕しなければならない。 良い建築というものは、女王も乞食も共にくつろがせるものである。それは時代を超越し、ファッションからは遠いものでなければならない。 建築家は特定の形、材料そしていわゆる様式にこだわるべきではない。心が自由であることによって、ひとつひとつの建物は、そのおかれた文化、社会に属するものになり、その目的に奉仕するものとなる。建築はその時代に所属すべきであると同時に、気品をもって年を重ねることもできるはずであり、それによって、それは日々により楽しく美しいものとなってゆく。 これはデザイン・コンセプトが真に価値ある人間生活に基づいたものであるときにのみ達成しうるものだろう。建物に在る日々の生活の中で、精神性、幸福、平和、神秘性、楽天性、驚き、ユーモアを人々は感じとるべきなのだから。 建築家の基本的な道具は、光、影、テクスチュア、色彩、水、壁、床、天井そして空間といった、時を超えたデザイン・エレメントである。 デザイン・プロセスは無限である。だから建築家は、経済上政治上の要因をいとわずに、すべての時間と熱意をそこに注ぐべきである。満足することがあってはならず、たとえそこに到達することが決してないとしても、完璧であることに向かって挑戦してゆくべきである。 横須賀の秋谷にも彼が設計した家があります。 外から見たことしかないのですが、白いヴォリュームの立体的な重なりや、それを背景にした木々の力強い生命感が強く印象に残ったことを思い出しました。 メキシコの建築家といえば、ルイス・バラガン(1902-1988)が最初に思い浮かびます。レゴレッタは多くをバラガンに学んでいることは明らかです。しかしバラガンが内向的な思索や神秘性に強く軸足を置いているのに対して、レゴレッタの場合はそれよりもむしろ、楽天性や生命の謳歌に気持ちが向いているようです。 上の写真2点とも 秋谷にあるレゴレッタ設計の住宅 2008年1月頃撮影 GA HOUSES 25号には今や世界を代表する建築家のひとりとなったスティーブン・ホールの初期の住宅やファンタスティックなプロジェクト群、篠原一男の晩年の住宅作品等々、発行から30年近くがたっていますが、なんて充実した号だったのだろうと改めて思います。 表紙はリカルド・レゴレッタによるサンタフェの住宅です。 ▲
by prospect-news
| 2018-10-22 10:39
| 随想
響きあう時間のこと。 各々がそれぞれに存在しながらもお互いに影響を及ぼしあう、 そんな時間がありました。 水戸芸術館現代美術ギャラリー「内藤 礼―明るい地上には あなたの姿が見える」へ行ってきました。随分久しぶりの水戸芸術館訪問です。 自然光だけで作品空間を体験すること。それが今回の水戸芸術館現代美術ギャラリーで実現されています。建築家にとって、自然光による空間を想像するのは、建築のひとつの原型をつくりだす作業でもあります。そしてそれを何かの拍子に工事中の現場で感じることがあります。目に見えるときもあるし、見えないけれど肌で感じる、そんなときもあります。それは時に竣工した建築物以上に迫力と生命力を持っているのです。 そういう意味で私にとって、水戸芸術館で内藤礼の作品空間を体験することは、同時に、この建築の設計者である磯崎新が思い描いた空間の原型を実感することでもありました。 明るい-暗い、大きい-小さい、高い-低い、広い-狭い、遠い-近い、正方形-長方形、切妻-四角錘、対称-非対称、軸線・・・等々、建築家はこれらの初源的な建築言語を組み合わせる秩序をつくり、それをたどる順序を思い描くことによって、そこでの空間体験を構想します。 初源的な建築言語がつくる空間をめぐることは、建築体験のはじまりだといえるでしょう。しかし、空間の手がかりがあまりにも直接的で単純なために、そして幾何学的な形と光のみという抽象的なものであるが故に、そこには何も無いと感じる人も多いかもしれません。本当はそこには何があるのでしょうか。 内藤礼の作品空間は、刻々と移り変わる自然光だけの状態で、天候によって全く異なる表情をみせる明るい場所とほの暗い場所で、光の変化と共にある空間を体験する人に、今そこに生まれ、そして過ぎ去っていくおぼろげな瞬間を現実のものだと実感させ、それを愛しむ気持ちへと自らが向かっていることに、自分自身を気付かせる働きを持っている、そんなふうに私は感じました。 内藤礼が空間の中に注意深く配した繊細なもの、あるいはかすかな揺れ、そして彼女の思考の痕跡は、磯崎新が構想した空間を残しながら、そこにわずかな解釈を加え、重ね合わせるようにして、別の物語や風景や気配をそこに浮かび上がらせます。その重なり合いに私たちが気付いたとき、空間はそこにそのままでありながら、もはやそのままではなくなっていた。少なくとも私にはそのどちらも見えたし、感じることができたのです。 訪れたあの日、その空間は静かな喜びと慈愛に満ちていました。何かを声高に語りかけてくるわけでもなく、神秘的な啓示を与えようとするものでもありません。そこには幾つかの異なる時間があり、私たち自身をとおして時間が重なり合い奥行きを生み、そこにまた別の時間が生成されていました。 作品空間には、磯崎新がつくる初源的な建築秩序の時間があり、内藤礼がつくる気配の時間がありました。一方を見つめれば他方は遠のきます。気がつけば、私たちはそこに自分自身を介入させているのです。つまりそこにあるものは、それぞれが独立して存在しながらも相互に影響を及ぼしあう、そんな時間なのです。 私はこの様子を響きあいと言い表したいと思います。 そして自分自身をも含みこんだ響きあいをその場で感じながら、同時に、少しだけ離れたところから、これを美しいと感じていたのです。 このようなことは、ことさら特別なことではなく、私たちの普段の暮らしのなかにも、よく目を凝らせば、静かにそこで耳を澄ませば、感じることができることかもしれません。それに気付くこと、それこそがあの作品空間のメッセージなのでないでしょうか。そんな思いが水戸芸術館を訪れた後、徐々に強くなってきているのです。 ▲
by prospect-news
| 2018-09-02 06:24
| 随想
大切にしたい建築があること、その喜びを伝えたかったのかもしれません。
学部2年から大学院1年までの学生たちによって、春学期(前期)の授業での成果がプレゼンテーションされ、専任・非常勤教員との間で質疑応答やコメントが交わされます。すべてのプレゼンテーションの後、教員たちは審査員として投票を行い、金賞・銀賞・銅賞、および各審査員それぞれの特別賞(個人賞)が決まりました。 いつものように興味深い作品がたくさんありました。 学生の作品を見ることは、「建築」をめぐる最新の傾向やテーマを発見することでもあります。学生の発表やそれに対する教員のコメントにおいても、学生が授業として向き合うことになる課題自体においても、さまざまな問題意識がそこに浮かび上がりました。 今回特に感じたのは、敷地や場所と建築との関係についてだったような気がします。敷地や場所とそこに建つ建築物との間に何らかの関係があるのは自明なことではあるのですが、その度合いについての感じ方や捉え方そして設計の仕方は、こっちに寄ったりあっちに寄ったりと建築の歴史のなかでもさまざまに変遷してきました。 場所が持つ何かを尊重しながら建築物をつくることによって、そこをよりよい場所に変えていこうという意図がある課題とそれに応えた作品があり、もう一方で、建築そのものの自律性や物質的なものそれ自体の問題を扱い、それによって成立する建築物の完成度を求めた課題とそれに応えた作品があります。そしてもはや場所性は考慮せず、実際に1:1の原寸でものづくりを体験し、それを実物として示すものもありました。 場所という複雑な文脈のなかで設計し、それらになるべく丁寧に応答しようとすれば、自ずと曖昧さは避けられず、その一方自律的な建築を徹底的に追及すれば、それは周囲とは切り離されたオブジェクトに接近してしまう。であるならばいっそのこと純粋なものそれ自体を追求しようとする。いずれにしても、それら全てを完璧に満足することはかなわないのが建築の宿命かもしれません。私自身は少し異なる考えを持っていますが、しかし一般的に、そして単純に考えればこうなってしまいます。 ある意味で学生たちは大変です。 なぜなら、そもそもの課題を彼らは選べないわけですから。そのなかで皆が懸命に着地点を探していました。 審査員特別賞ですが、私は3年生の設計した「道の森」を選びました。 課題は江ノ島ヨットハーバーの脇に建つパラリンピック時の宿舎、その後は集合住宅として使う建物だそうです。ユニバーサルデザインであることも解決すべきテーマのひとつだとのこと。発表の時には難しい注文をいろいろつけられていました。やれ構造が成り立っていないとか、周囲の環境とあっていないだとか・・・。しかし大きな模型と小さな模型がしっかりと作ってあり、情熱を持って設計に向かっていることがわかります。そしてもろもろのコンテクストと応答させながらも、ひとつの原理を徹底して追及したいという強い意思が読みとれました。そして何よりも、建築を考えることが好きなんだということが伝わってきました。 審査員特別賞の発表の場に「道の森」の作者はいなかったようです。いろいろ賑やかなコメントを受けたことで(多くのコメントや質疑応答が出るのはそれだけ興味深く可能性がある故なのですが)、最後まで会場ににいることができなかったとか・・・。そのことは残念ですが、審査員特別賞として選んだこと、そして賞品を渡してほしい旨を担当の先生に伝えました。 そんなこともあって、自分としては今回のヴァーティカルレビューはいろいろ考えさせられる機会になりました。9月後半の秋学期からは、私も担当する授業がはじまります。今回のことを心に留めて学生たちに向き合っていかねばという気持ちになりました。 さてはじめの写真は、今回の審査員特別賞のプレゼント。これまで時間を見つけて描いてきたドローイングをポストカードにしたものです。星の数ほど素敵な建築はあるのだけれど、いざ選ぶとなるとまずはこの5作。名作と呼ばれるものもあるし、一部のコアな人しか知らないものもある。 それでも自分にとっては大切な建築(たち)です。そんな建築を心の中に持っていることが、もしかしたら一番大事なことなのかもしれません。ポストカードを渡した学生にもこの気持ちが伝わると良いのですが・・・。 ▲
by prospect-news
| 2018-08-27 07:53
| 随想
想像力によって思い描かれるかぎり、別府の巨大な仮想の球はモニュメントでありつづけています。
![]() 奥に見えている直方体のガラスカーテンウォールの建物は短辺約50m、長辺は約150m。また手前のタワーには(写真ではまったくわかりませんが)、地上100mの位置に展望台があります。銀色のチタンクラッド鋼のパネルの頂部は地上120mの高さです。 このパネル、実はこの建物に隣接する別府公園の海抜0mを中心とした半径500m、直径にして1kmの仮想の球の一部を切り取ったものなのです。竣工当時はあまりそのことを意識していなかったけれど、あらためて写真をみると、本当に球の一部だということを感じます。そして、仮想の球それ自体をモニュメントと呼び、その一部分が切り取られて現れているんだという、そのイメージのスケールの大きさに本当に驚きます。設計した磯崎さんも、このように巨大なものを依頼した人々もすごいですね。直径1kmの仮想の球は、それが想像力によって思い描かれるかぎり、時代の変化と共に様々な意味をそこに引き寄せながらも、純粋な球であり続けるのです。 別府は、当時温泉観光文化の衰退で訪問客が減り、今後この街はどうなるのか、という課題がありました。しかしその後様々な人々の努力やアイデアで街は息を吹き返し、ここ数年はいろいろと楽しいことがおこっていると、若い友人たちから聞いています。それに今年の秋には、別府公園に現代美術家アニッシュ・カプーアが作品をつくるとのこと。 タイミングが合えば、ぜひ秋に再び訪れてみたいと思います。 きっと機会があるはずです。 追記 別府のこの建物については以前も書いていました。こちらから ▲
by prospect-news
| 2018-08-23 11:46
| 計画
都市の風景、失ってはいけないもの、
そんなことを考えながら横浜関内を歩きました。
![]() 所用で横浜・関内へ。 日本大通り付近には美しい近代建築が、様々な方々の努力によって、たくさん残っています。そんなエリアで異彩を放ちながらも、そこにうまく馴染んでいるのがこの建物です。以前から前を通る度に気になっていました。一階には有名なアウトドアショップや素敵な鞄屋さんが入っています。 直方体を組み合わせた単純なボリューム構成、徹底したチャコールグレーのガラスカーテンウォール、端正な姿で周囲の歴史的建造物群をリスペクトしながらも、しっかりと現代的な存在感を表現しているように思います。 調べてみるとアントニン・レイモンドの在日最晩年の設計(1973年)とのこと。今から45年ほど前につくられた建物ということになります。当時は「マークスビル」という名称だったようです。(現KRCビルディング) 建物に求められる熱負荷の低減などの観点から見れば、確かにこの建物のようなガラスカーテンウォールは不利なこと明白ではあるのだけれど、それでもこの穏やかで優雅なリズム感は、今でも十分見応えがあるのではないでしょうか。 単純な表現ほど実は難しい、この事実は何事においても同じだと思います。 複雑で場当たり的になりがちな多くの物事を秩序化し、それを建築物として構築しなおし、単純で軽快で優雅な表現へと結び付けてゆくこと。その良質な事例として、今後もこの場所の風景の一部として在り続けてほしいと思います。 その斜向かいのカフェの建物もなかなかすごい。 なんだか夢の中に出てきそうな(?)・・・。 こんな一角が今でも街のど真ん中にあるのも横浜の良さ、そう思います。 そういえば、BankArt1929の建物が解体されたのは残念でした。建て替えや再開発は、都市の安全性や発展性を確保するために必要な場合も多いと思いますが、そうであったとしても、街の均質化は避けなければならないし、多様で多層的な時間の集積こそが、この街の魅力なのではないでしょうか。 帰りは中華街まで足をのばしました。 学校などが夏休みに入ったからでしょうか、すごい人出です。しかし、タレントやTVやSNSなどで(少なくとも表面的には)街はあふれかえっていて、少し前まであったはずの、深みのようなものやすごみのようなものが、見えにくくなってしまったような・・・、横浜中華街が、おとぎの国の中華街になってしまったような・・・。 そんなことを考えながらの夏の一日でした。 ▲
by prospect-news
| 2018-07-30 08:03
| 風景
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